静岡市の秘境の温泉、濃い温泉の梅ヶ島温泉です。
梅ヶ島温泉は、昔から「信玄公の隠し湯」といわれるように、甲斐の国の武田信玄公の善政によって統治されていたことがあります。
信玄公は、永禄10年(1569年)に富士川、安倍川の両金山を手に入れて、甲州金と呼ばれた金貨を鋳造しています。
甲州金は、日本で初めて体系的に整備された貨幣制度であるといわれていますが、山梨県埋蔵文化財センター(山梨県立考古博物館)に見るように、甲斐の国には縄文時代はもちろん、さらにその前の石器時代から、豊かな文化が栄えていたということですから、この地に武田信玄公が登場して破竹の勢いを得たのも、太古からこの地には何か特別な力が働いているのかもしれません。
武田信玄公は、元亀3年(1572年)12月、三方ヶ原の戦いで日本最強の2万7千の軍を率いて徳川軍を破っていますが、翌元亀4年(1573年)4月12日には、京都への作戦の途上で病没してしまいました。享年53歳。
跡を継いだ武田勝頼公は、信玄公が亡くなった翌々年の天正3年(1575年)5月21日、対織田、徳川戦となった長篠の合戦で惨敗。「武田二十四将」のうち9人はすでに死亡していたそうですが、残る15人のうち7人までが長篠で討死してしまったといいます。
武田氏は滅亡ということになったのですが、ここ梅ヶ島、かつての本村や大代の地でも、徳川軍と武田軍が戦ったそうです。
織田信長公は徳川家康公に、武田家と縁のある者は絶滅させるように言われていたそうですが、家康公はそれに背き、折井、米倉、依田、三枝など、武田家臣の多くを、自分の領地である駿遠の地に逃れさせたといいます。
また勝頼公は、妹のお市どのを何としても逃れさせたいと考え、家臣の遠藤伝蔵の妻として、二人は梅ヶ島の十枚山下の成島というところの山中に隠れました。
二人はその後、安倍川西岸に芝地を拓いて新田とし、これが遠藤新田となったそうです。
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写真は、武田信玄公や勝頼公を祀った山梨県の武田神社です。
本稿は、『史話と伝説 梅ヶ島物語』昭和57年志村孝一編著ほかを参考に編集しています。