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2019年8月31日土曜日

幸田文の『崩れ』

静岡の梅ヶ島温泉です。

紅葉の大谷崩(大谷嶺南面の山体崩壊)

幸田文著『崩れ』
明治37年(1904年)生まれで平成2年(1990年)に86歳で亡くなった作家の幸田文が72歳の時、昭和51年(1976年)の5月に、梅ヶ島温泉に泊まって、安倍峠や大谷崩などを訪れたことがきっかけで、昭和51年から翌年にかけて雑誌「婦人之友」に連載さた随筆が、この『崩れ』という本です。この本が講談社から出版されたのは、没後の平成3年(1991年)のことでした。

2017年12月10日日曜日

大正2年の『安倍郡梅ヶ島村誌』

静岡市の秘境の温泉、濃い温泉の梅ヶ島温泉です。


静岡県立図書館所蔵の『安倍郡梅ヶ島村誌』の最初のページです。

これは、大正2年(1913年)に靜岡縣安倍郡梅ヶ島村役場により編集された原本を複写して製本したもので、原本もこの複写本も、静岡県立図書館に所蔵されています。

静岡県立図書館は、現在耐震強度の問題が発覚して利用できなくなっていますが、静岡市立図書館を通して、この複写本をお借りすることができました。(静岡市の図書館には、この大事な資料がありません。)

昭和期以降に編集された梅ヶ島に関する書物も、この村誌を参考にしているところがあるようです。

とても読みづらい本ですが、なんとか読み解いてみたいなあと思っています。

2017年10月17日火曜日

歴史資料『梅ヶ島村誌』

静岡市の秘境の温泉、濃い温泉の梅ヶ島温泉です。


全体で84ページぐらいにまとめられたもので、旧梅ヶ島村役場から昭和43年12月に発行されています。

静岡市立図書館と梅ヶ島地区センターで閲覧することができます。

この村誌を編集する上で、大正2年に発行された最初の村誌が重要な資料となっているようです。そもそも貴重書ですが、これは現在閲覧することができません。もしできたらまたご報告します。

2017年10月2日月曜日

緒形拳さんと茂木草介さんのサイン

静岡市の秘境の温泉、濃い温泉の梅ヶ島温泉です。


これはあの有名なお二人の色紙で、梅ヶ島温泉のホテル梅薫楼に残されているものです。

左のサインは、茂木草介さん(明治43−昭和55年)。大阪市生まれの脚本家で、昭和39年(1964年)に梅ヶ島温泉の梅薫楼に長逗留して、NHKの大河ドラマ『太閤記』(昭和40年)の脚本を書きました。(原作は吉川英治の小説『新書太閤記』です。)

右のサインは、俳優の緒形拳さん(昭和12年−平成20年)。脚本家の茂木先生に呼び出されて梅ヶ島温泉にやって来てこの色紙にもお二人が揃ったというわけです。

緒形拳さんも故人となってしまわれましたが、当時はまだ新人で、豊富秀吉らしく猿に似ていたということで、NHKの大河ドラマ『太閤記』で主役に抜擢されたそうです。

大河ドラマ『太閤記』は、このお二人が梅ヶ島温泉に滞在した翌年の、正月から年末まで放送され、大変な人気を博しました。

緒形拳さんは梅ヶ島温泉にすっかりはまってしまい、その後も毎年湯治に訪れています。奥さんのお腹が大きい時にもご夫婦で来られ、さらにお子さん連れでも滞在されました。

2017年6月3日土曜日

梅ヶ島温泉が登場する『鬼平犯科帳〜雨乞い庄右衛門』

静岡市の秘境の温泉、濃い温泉の梅ヶ島温泉です。


今回は、梅ヶ島温泉が登場する『鬼平犯科帳〜雨乞い庄右衛門』をたっぷりとご紹介します。

池波正太郎は30歳を過ぎたころ、当時開通したばかりの静鉄バス(梅ヶ島温泉までバスが来るようになったのは昭和27年だそうです)に4時間も揺られて梅ヶ島を訪れたことがあるそうです。大正12年(1923年)生まれで、30歳になったのは昭和28年(1953年)の正月ですから、当時は梅薫楼にお泊りだったわけです。(参考:梅ヶ島温泉の歴史(5)

それから『鬼平犯科帳〜雨乞い庄右衛門』を執筆したのが、恐らく、昭和45年(1970年)か、発表された昭和46年(1971年)だと思われるんですが、やはりその当時、池波正太郎さんは梅薫楼に電話をかけてこられ、「このような内容で梅ヶ島温泉のことを書くが間違いがないか」という校正を依頼されたそうです。

さすがは大作家、日本を代表する時代小説の大作家です。

『鬼平犯科帳〜雨乞い庄右衛門』は、決して梅ヶ島温泉だけを舞台にしたというわけではないにも関わらず、しかも、書こうと思えば何とでも書けたであろうにも関わらず、江戸時代からの梅ヶ島温泉を伝え聞いているであろう梅ヶ島の人たちから見ても、自分の書く梅ヶ島が見当違いになっていないかどうか、しっかり確認されたということなんですね。

その池波正太郎が、『鬼平犯科帳〜雨乞い庄右衛門』の中で、梅ヶ島温泉のことを次のように書いています。


 庄右衛門が、約三年の間、湯治につとめていた場所は、駿府すんぷ(現静岡市)から安倍川沿いに北へ十五里ほどのところにある梅ヶ島の温泉だ。
 切り立った山肌と深い渓流にかこまれた岩の間から、こんこんとわき出る温泉は万病に効くといわれている。しかし、なんといっても山深いところゆえ、山小屋のような旅籠が一つあるだけで、そのようなところへ、大盗・雨乞いの庄右衛門ともあろうものが、よくも三年の間、じっと息をこらし、辛抱していたものだ。
 庄右衛門は、梅ヶ島の上の安倍峠をこえて甲斐の国へ入り、富士川辺りへ下ったところの横根村で生まれた。だから、このあたりの様子にはくわしいし、少年のころ、父親につれられて梅ヶ島の温泉へ来たこともある。

 (略)

 庄右衛門の病気は、関節痛と心臓である。一時は死ぬか、とおもわれたほどだが、下ノ郷の隠れ家で十カ月ほども療養するうち、すこしは持ち直してきた。
 すると庄右衛門は、
「こんなところにかくれていては、死ぬのを待つばかりだ。一か八か、梅ヶ島へ行ってみる。あそこの湯につかって、気長に湯治をすれば、もう一度、おつとめができるかも知れねえ」
 と、いい出し、病みおとろえた身を馬の背に乗せ、それを勘行かんぎょうの定七に曳かせて梅ヶ島へ向かった。

(略)
 
事実、そのころの庄右衛門は心ノ臓のほうが悪化し、食慾もうしない、やつれ果てていたのである。
 それがどうだ。今年の春ごろからめきめきと体力がつき、見ちがえるように元気が出てきた。
(こうなったら、最後のおお仕事を……)
 と決意するや、矢もたてもたまらなくなり、
「今年中には、江戸へもどる」
 と、定七を使いとして江戸へさし向け、深川・小松町で[眼鏡師・半兵衛]になりすましている鷺田の半兵衛へ、いい送ったわけだが、定七が梅ヶ島を発って五日もすると、あまりにも躰の調子がよいのでわくわくしてしまい、
(そうだ。一人で定七の後を追いかけ、いきなり、この元気になった顔を見せてやったら、半兵衛もお照も、どんなによろこぶことか。よし、ひとつ、びっくりさせてやろう)
 おもいたつと、たまらなくなり、馬をやとって梅ヶ島を発し、駿府からは駕籠かごを乗りつぎ、由井の宿場まで来たわけであった。
雨乞いの庄右衛門は、六尺に近い大男だが、五十八になったいま、さすがに若いころのたくましさはない。
 それでも、骨ばかりだった胸や股に肉もついてきたし、何よりも夜の寝床で、心臓の発作ほっさへの不安が、
(このごろは、まったく起きねえ)
 のが、うれしく、こころ強い。



梅ヶ島温泉を舞台にした大盗賊の庄右衛門は、もう死も近いと思っていたところ、梅ヶ島温泉へ行って完全に回復したということです。

小説のように、「万病に効く」と言い切ってしまうことはできませんが、江戸の昔から、知る人ぞ知る、至高の硫黄泉だったことに間違いはありません。

2017年5月28日日曜日

梅ヶ島温泉の歴史(4)

静岡市の秘境の温泉、濃い温泉の梅ヶ島温泉です。


写真は、昭和14年の夏に、梅ヶ島温泉の梅薫楼に滞在した、歌人の吉井勇です。写真の原典は、昭和30年の『アサヒグラフ』新年号に掲載されたものです。(現時点では著作権がなくなっています。)


吉井勇は、梅ヶ島温泉滞在中に短歌を残していて、それが『史話と伝説 梅ヶ島物語』にも掲載されていますので、いくつか紹介します。

 天平の昔より湧く湯を浴めば思いはるけくなりにけるかな

 あめつちの大きこゝろに親しむと駿河の國の湯どころに來し

 金の湯に一夜浴みなばうつし世の憂いかなしみなべて忘れむ

この中の二番目に紹介した歌は石碑になっていて、梅ヶ島温泉おゆのふるさと公園の中にその石碑があります。