静岡市の秘境の温泉、濃い温泉の梅ヶ島温泉です。
今回は、梅ヶ島温泉が登場する『鬼平犯科帳〜雨乞い庄右衛門』をたっぷりとご紹介します。
池波正太郎は30歳を過ぎたころ、当時開通したばかりの静鉄バス(梅ヶ島温泉までバスが来るようになったのは昭和27年だそうです)に4時間も揺られて梅ヶ島を訪れたことがあるそうです。大正12年(1923年)生まれで、30歳になったのは昭和28年(1953年)の正月ですから、当時は梅薫楼にお泊りだったわけです。(
参考:梅ヶ島温泉の歴史(5))
それから『鬼平犯科帳〜雨乞い庄右衛門』を執筆したのが、恐らく、昭和45年(1970年)か、発表された昭和46年(1971年)だと思われるんですが、やはりその当時、池波正太郎さんは梅薫楼に電話をかけてこられ、「このような内容で梅ヶ島温泉のことを書くが間違いがないか」という校正を依頼されたそうです。
さすがは大作家、日本を代表する時代小説の大作家です。
『鬼平犯科帳〜雨乞い庄右衛門』は、決して梅ヶ島温泉だけを舞台にしたというわけではないにも関わらず、しかも、書こうと思えば何とでも書けたであろうにも関わらず、江戸時代からの梅ヶ島温泉を伝え聞いているであろう梅ヶ島の人たちから見ても、自分の書く梅ヶ島が見当違いになっていないかどうか、しっかり確認されたということなんですね。
その池波正太郎が、『鬼平犯科帳〜雨乞い庄右衛門』の中で、梅ヶ島温泉のことを次のように書いています。
庄右衛門が、約三年の間、湯治につとめていた場所は、駿府(現静岡市)から安倍川沿いに北へ十五里ほどのところにある梅ヶ島の温泉だ。
切り立った山肌と深い渓流にかこまれた岩の間から、こんこんとわき出る温泉は万病に効くといわれている。しかし、なんといっても山深いところゆえ、山小屋のような旅籠が一つあるだけで、そのようなところへ、大盗・雨乞いの庄右衛門ともあろうものが、よくも三年の間、凝と息をこらし、辛抱していたものだ。
庄右衛門は、梅ヶ島の上の安倍峠をこえて甲斐の国へ入り、富士川辺りへ下ったところの横根村で生まれた。だから、このあたりの様子にはくわしいし、少年のころ、父親につれられて梅ヶ島の温泉へ来たこともある。
(略)
庄右衛門の病気は、関節痛と心臓である。一時は死ぬか、とおもわれたほどだが、下ノ郷の隠れ家で十カ月ほども療養するうち、すこしは持ち直してきた。
すると庄右衛門は、
「こんなところにかくれていては、死ぬのを待つばかりだ。一か八か、梅ヶ島へ行ってみる。あそこの湯につかって、気長に湯治をすれば、もう一度、お盗めができるかも知れねえ」
と、いい出し、病みおとろえた身を馬の背に乗せ、それを勘行の定七に曳かせて梅ヶ島へ向かった。
(略)
事実、そのころの庄右衛門は心ノ臓のほうが悪化し、食慾もうしない、やつれ果てていたのである。
それがどうだ。今年の春ごろからめきめきと体力がつき、見ちがえるように元気が出てきた。
(こうなったら、最後のおお仕事を……)
と決意するや、矢も楯もたまらなくなり、
「今年中には、江戸へもどる」
と、定七を使いとして江戸へさし向け、深川・小松町で[眼鏡師・半兵衛]になりすましている鷺田の半兵衛へ、いい送ったわけだが、定七が梅ヶ島を発って五日もすると、あまりにも躰の調子がよいのでわくわくしてしまい、
(そうだ。一人で定七の後を追いかけ、いきなり、この元気になった顔を見せてやったら、半兵衛もお照も、どんなによろこぶことか。よし、ひとつ、びっくりさせてやろう)
おもいたつと、たまらなくなり、馬をやとって梅ヶ島を発し、駿府からは駕籠を乗りつぎ、由井の宿場まで来たわけであった。
雨乞いの庄右衛門は、六尺に近い大男だが、五十八になったいま、さすがに若いころのたくましさはない。
それでも、骨ばかりだった胸や股に肉もついてきたし、何よりも夜の寝床で、心臓の発作への不安が、
(このごろは、まったく起きねえ)
のが、うれしく、こころ強い。
梅ヶ島温泉を舞台にした大盗賊の庄右衛門は、もう死も近いと思っていたところ、梅ヶ島温泉へ行って完全に回復したということです。
小説のように、「万病に効く」と言い切ってしまうことはできませんが、江戸の昔から、知る人ぞ知る、至高の硫黄泉だったことに間違いはありません。