静岡市の秘境の温泉、濃い温泉の梅ヶ島温泉です。
前回に続き、『史話と伝説 梅ヶ島物語』から、梅ヶ島温泉の歴史について紹介します。
安倍川源流域の梅ヶ島は、今も梅ヶ島地区の日影沢に金鉱跡がある通り、古くから金を産出することで栄えてきました。
その歴史は、仁徳天皇とか、その前の応神天皇のころからだとも言われていますから、「1,700年の歴史」だというわけです。
その長い歴史の中でも、特にはっきりとわかっていてよく語られるのは、戦国時代のころからです。
梅ヶ島温泉から山梨県へ行く「林道豊岡梅ヶ島線」がありますが、温泉街から県境の安倍峠まではわずか7〜8キロメートルしかありません。(現在のところ、12月中旬から4月中旬までの通行可能な期間であっても、安倍峠から山梨側へは、長い間、工事のため通行止めになっていますのでご注意ください。)
一方、南側、つまり安倍川を下って行く静岡市街地方面へは、何十キロメートルもあります。
そのような地理的な事情もあって、戦国時代の梅ヶ島は、甲斐の国(今の山梨県)に属していました。
それで梅ヶ島温泉は、優れた効能もあったことから、「信玄の隠し湯」のひとつとして湯治に使われてきたようです。
その後、徳川家康公によって戦国時代に終止符が打たれ、慶長年間には梅ヶ島をはじめとする安倍川上流域や、大井川上流の井川などから産出した金を使って、日本初の統一通貨といわれる、慶長小判や慶長大判が駿府(今の静岡市)で鋳造されました。
将軍職を徳川秀忠公に譲った家康公が、駿府で大御所政治を執り行なっていたころのことです。
家康公にとっての駿府は、かつて自分が今川家によって育てられた地であり、終の棲家としたのも駿府城でした。
その大御所時代、徳川家康公が自ら梅ヶ島に来たとまでは、この本には書かれていませんが、「将軍家ご慰労のため」として、梅ヶ島温泉の湯は、たくさんの桶で駿府城へ運ばれたんだそうです。原典は、阿部正信の『駿國雜志』や、徳川将軍家の公式記録である『德川實紀』です。
次回は、三蛇権現、つまり梅ヶ島温泉の湯之神社の由来について紹介します。