2017年10月20日金曜日

江戸時代ごろの梅ヶ島温泉の入湯料

静岡市の秘境の温泉、濃い温泉の梅ヶ島温泉です。

横田内膳正書状

   定
湯入壹人ニ付て、鐚銭は五拾文、米は京升參升宛、可取候、但寺へをけ以下之儀は、借可申候、右相定之上、若違反之人於有之は、其元鄕中之者共、不殘出合、可押取候、内膳内之者などゝ申共、ひいきなく可取者也
 文禄五年申六月十日  内膳正
             村詮判
  梅ヶ島
   惣百姓中


 これが梅ヶ島温泉に関わる最も古い文書だそうで、文禄5年(1597年)の入湯料の規定について記されています。

 文禄年間というのは、大地震が相次いで発生し、九州、四国から関東に至るまで、各地で大きな被害が出ました。そのため、縁起でもないこの元号は5年で切り上げて慶長に改元され、その後、豊臣秀吉公薨去こうきょ、関ヶ原の戦いを経て徳川家康公が征夷大将軍となって江戸時代が始まったんですね。

 「1人につき、鐚銭びたせん50文、または、米3升(京升で)」とあります。

 「鐚銭」というのは、「ビタ一文払えねえ!」などというように、本来は「悪銭」で、私的に鋳造されたりした値打ちの低いコインだったんですが、16世紀も終わりごろになってくると、貨幣の絶対量が少なかったため、鐚銭にも需要が出てきて、それをもっての支払いを拒否することもできなくなったそうです。つまり、この当時は「悪銭」ではなくて、立派なお金だったということですね。

 同じころ、江戸に開業された銭湯の入湯料は鐚銭で6文ぐらいだったそうですから、梅ヶ島温泉の入湯料はすごく高額だったということになるようです。

 以上は、1990年発行の新井正編著『梅ヶ島郷土誌』他を参考にさせていただきました。
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