2020年5月19日火曜日

武田信玄と梅ヶ島


静岡の梅ヶ島温泉です。

「信玄の隠し湯」としても知られてきた梅ヶ島温泉ですが、梅ヶ島は実際の歴史で武田信玄とどのように関係が深かったのかということを紹介してみたいと思います。

資料とさせていただいたのは、上の書影
森竹敬浩著『安倍奥の雄、安倍家代々と金山衆 〜山人たちはいかに徳川政権樹立を支えたか〜』(発売元 静岡新聞社)です。静岡新聞社の自費出版大賞を受賞した、大変に価値のある書籍で、アマゾンなどでも販売されています。

武田信玄は、駿府に二度侵攻していて、第一次は永禄11年(1568)。駿府城主だった今川氏真(いまがわうじざね)は、信玄と一戦も交えることなく城を明け渡したそうです。

それから、西の徳川家康、東の北条氏政などと睨み合うことになるのですが、翌年には一旦兵を引き、第二次の侵攻を開始します。永禄12年(1569)のことで、この年から信玄は、梅ヶ島を直轄地としました。

以下、『安倍奥の雄、安倍家代々と金山衆』からそのまま引用させていただきます。

 梅ヶ島金山で中心になるのは日影沢であるが、発見は天正三年(1575)といわれる。以後、慶長年間(1596〜1615)ごろまで「中栄(なかさかえ)」といわれる反映を見た。日影沢金山は天保二年(1831)に閉山となったが、この間約二五〇年間、金の採掘が続いたことになる。
 梅ヶ島での金採掘の歴史は古く、『新編駿河国風土記』に「天平勝宝二年(750)に多胡浦浜(田子の浦)に金を得たことにより、国守の命による金山を求めて、此山(梅ヶ島村)の金も見出せしものなり」の記述がある。
 安倍奥の梅ヶ島、井川の小河内などは天正一〇年(1582)、武田本家の滅亡なで直轄地となった。これらの金は黒川金などとともに甲州金として武田方の領国経済を支えることになった。
 梅ヶ島を直轄地としたこのころに、武田信玄は梅ヶ島の金で潤ったということですが、梅ヶ島温泉も同じころに「信玄の隠し湯」として大事にされたということのようです。